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総理大臣の椅子を蹴った男「伊藤正義」 糖尿病が原因か

糖尿病・医療・科学
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伊東正義という政治家をご存じですか。

生きておれば110歳になる人、この方とても立派な人だったようですが、糖尿病だったらしい。

やっぱり、ケガや病気はハンディが大きいですね。

 

総理の座を固辞した伊東正義、会津人の気骨

「本の表紙だけ変えても、中身が変わらないのでは駄目だ」

官房長官、外相、政調会長、総務会長など、要職を歴任した伊東正義が自民党総裁に党内一致で推されたのは、平成元年(一九八九年)のこと。六月三日、リクルート事件で竹下登首相が退陣し、政治不信の空気が蔓延するなか、清廉なイメージを期待されての要請だったが、伊東は宰相の座を蹴る。政治改革推進本部長として金権体質の改善に努めてきたが、これに消極的な党執行部への、一徹な会津人の意地だった。

大正二年(一九一三年)、福島県会津若松市生まれ。祖父は会津藩士の伊東健輔。東大法学部を卒業後、農林省に入る。満州の興亜院に出向していたときには、刎頸の交わりとなる大蔵省の大平正芳と机を並べた。

昭和三十八年(一九六三年)、福島二区から衆議院に初当選。以後、当選九回。昭和五十四年、第二次大平内閣の官房長官として初めて入閣するが、翌年の衆参同日選挙の最中に大平が急逝。伊東は総理大臣臨時代理を務めながら選挙を取り仕切り、自民党を圧勝に導いた。このときも加藤紘一、堀内光雄ら、宏池会の若手が総理後継の流れを作ろうとしたが、伊東は首を縦に振らなかったという。

写真は竹下内閣で総務会長を務めていた平成元年、「文藝春秋」四月号に掲載された。

〈趣味は観劇。森光子の熱烈なファンである。「大女優なのに庶民的だから好きなんだ」〉

平成六年五月二十日、八十歳で永眠。中野・宝仙寺で行われた葬儀では、政治改革を志した盟友、後藤田正晴が弔辞を読んだ。

〈あなたは政治家の中では珍しい愚直なまでの潔癖漢でもありました。こうした姿勢を貫きとおしたことに、私はすがすがしさ、美しさすら覚えます。/党内にはそういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそが今の政治に最も大切なことだと思います〉

 

〈出典:今こんな政治家がいたら…「総理の椅子を蹴飛ばした男」をご存知か

荒井 ええ。伊東さんは、「ありがとう。君たちのような若い人までそう言ってくれてありがたい。でもな、俺の机の上を見てみろ」と言うんです。「なんですか?」と机の上を見てみると、置いてある書類はみんな字がとても大きい。

糖尿病を患っていて、視力が低下するほど深刻な病状だったようです。伊東さんは「こんな半病人で、日本がピンチの時に背負って立つことはできないよ」と言ったんです。私は総理を固辞した最大の理由はやはり健康問題だったのだと思います。

自宅には風呂もなかった

国正 伊東さんは当時、人差し指にずっと包帯をしていました。糖尿から来る出血で包帯が取れない状態でした。確かに固辞した原因の半分は健康問題だと思います。

しかし、もう半分の理由は党内状況です。伊東さんは「自民党には現状に対する危機意識が足りない。この際リクルート事件関係者は全て役職を降りて総退陣し、若手を積極的に登用するべき。さらに派閥も解消する」という厳しすぎる条件を突きつけた。

それどころか竹下を始め、安倍や中曽根など事件に関与した幹部には議員辞職まで求めた。ところがそうした中、すでに竹下の元で、伊東を擁立して閣僚人事はどうするか、と話し合われていた。このことを知り、伊東さんは激怒したんです。

平出 そうして、5月9日、国会内での記者会見で有名な「本の表紙だけ変えても中身が変わらなければダメだ」という言葉が出たわけですね。

ただ、実はあの言葉は伊東先生が会見でボソッと言っただけなんです。頭の中にはあったのでしょうが、決め台詞として言ったわけではない。つい本音が出たのでしょう。それが大々的に報じられた。

あれだけの政治家だから総理辞退ということがどれだけの影響を与えるかはわかっていたはずです。

平出 私はあの時、もしかしたら総理を引き受けようとした日もあったのではないかと感じています。たとえ命は半年しかなくても、という風に考えているように見受けられました。

でも、本当に党の全員が反省し、自分を支えてくれるのかという疑問は拭えなかった。そして、結局は口先だけの反省だったと見抜いたのだと思います。

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