1: 樽悶 ★ 2025/06/07(土) 23:59:38.45 ID:nN0m17JV9藤井勝彦(歴史紀行作家)
「邪馬台国は、どこにあったのか?」それは、日本の歴史史上、最大の謎と言っても過言ではない。その謎解明に大きな役割を果たしてくれそうなのが、「倭国大乱」と「狗奴国」の真相究明である。この二つの命題について、以下のような大胆な推理を試みてみた。いったい、どんなことが起きていたのだろうか?
(省略)
実はそれともう一つ忘れてならないのが、邪馬台国とヤマト王権の関係だ。もしも邪馬台国が畿内大和にあったとすれば、ヤマト王権とはその後継勢力であったとみなすことができそうだが、九州にあったとすれば、話がややこしい。九州の邪馬台国が畿内大和に君臨したヤマト王権とどのように関わってきたのか、これがなかなか解明できないからである。
ただし、まんざら手がかりがないわけではない。その謎解明に大きな役割を果たしてくれそうなのが、邪馬台国と敵対関係にあったとされる「狗奴国」の存在と「倭国大乱」だと思えてならない。まずは、狗奴国がどのような国だったのかから見ていくいことにしよう。
(省略)
それでも気を取り直して、狗奴国の比定地として有力視される出雲を中心として考えてみた。出雲といえば、壮大な出雲神話のことが思い浮かぶ。新羅から渡来してきた素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、八岐大蛇に投影された越の豪族たちを追い出し、その娘婿あるいは数代後裔の大国主神(オオクニヌシノカミ)が国造りに励んだとされるところである。少彦名命(スクナヒコナノミコト)と力を合わせ、ついに国造りを成し遂げ、広大な出雲王国を築いたとか。勢力範囲は、九州を除く西日本一帯だったと考えても不思議ではない。
問題はここからである。もしもその王国が狗奴国だったとすればどうなるのか……である。その勢力範囲は広大で、中国地方西端にまで及んでいたとも考えられるわけだから、下関でさえ狗奴国の勢力範囲内である。ならば、海を渡ること千余里で狗奴国、つまり、その一部である下関に至ると言い切ったとしても、決して間違いではないのだ。
■倭国大乱は、「葦原中国の平定」か「神武東征」か?
では、この時、吉備や畿内大和はどのような状況下にあったのかも、合わせて考えてみたい。実は両地とも、王国と呼べるほどの巨大な勢力であったことは、容易に推測できるだろう。この両勢力が、朝鮮半島の鉄資源を北九州を経由して手に入れていたものの、九州勢が単独で後漢へ遣使を送って冊封された(AD 57年に金印を授与された)ことに激怒。北九州勢と絶縁して、出雲勢力と手を組んだものと考えられる。出雲なら、北九州を介さずとも、直接、朝鮮半島への航行が可能だったからである。
となれば、この時点での対立構造は、九州勢(倭連合国)VS九州を除く西日本連合国(出雲、吉備、畿内大和が中心)と考えられるのではないか。その後、AD107年に倭国王帥升が後漢に遣使を送ったことが『後漢書』に記されているが、この帥升を出雲王国の立役者であった素戔嗚尊とみなす識者もいるようだから、九州勢の奴国に対抗して、西日本連合国の盟主的存在であった出雲王国が後漢に朝貢したと考えることもできそうだ。
そして、その数十年後に繰り広げられたのが、倭国大乱であった。『後漢書』によれば、桓帝霊帝の治世(146~189年)の頃、『梁書』によれば霊帝の光和年間(178~184年)の頃のことである。それが、神話として語られる「葦原中国の平定」のことだと思えてならないのだ。九州勢(邪馬台国)を率いるのは、高天原にいたとされる天孫族で、出雲王国を率いるのは大国主神。天孫族が大国主神に国譲りを強要。一部抵抗はあったものの、見事その制圧に成功する。これが倭国大乱を象徴的に語ったものとみなしたいのだ。
そして、その締めくくりが、神武天皇による東征であった。未だなびかぬ吉備をひとたび制した後、当時はまだ物部王国であった畿内大和勢をも制圧。ヤマト王権の創建である。つまるところ、ヤマト王権の母体は邪馬台国であり、畿内大和の物部王国を自らの勢力に取り込むことを皮切りとして、新たな王権を発足させたのだ。その後、勢力を拡大。崇神天皇10年に四道将軍の一人・彦五十狭芹彦命(吉備津彦)を吉備に派遣して、これを完全に制圧。それから2世紀以上も過ぎた継体天皇21(527)年に起きた磐井の乱を制したことをもって、ようやく九州勢を駆逐して、全国制覇を成し遂げたと考えられるのだ。
ただし、疑問は残る。倭の連合国の主体は北九州にあったことは間違いないが、女王として共立された卑弥呼がいたとされる邪馬台国がどこにあったのかは、この文面だけでは明確にできないからである。(以下ソース)
「倭国大乱」「狗奴国」の真相解明で、邪馬台国の謎が解ける! 古代史最大の謎には「出雲」が関わっていた!?(歴史人) - Yahoo!ニュース「邪馬台国は、どこにあったのか?」それは、日本の歴史史上、最大の謎と言っても過言ではない。その謎解明に大きな役割を果たしてくれそうなのが、「倭国大乱」と「狗奴国」の真相究明である。この二つの命題につ引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1749308378/
千葉にも大きい古墳があった
>>16
そりゃ戦国末期に家康が来て江戸の街を作るまで今の千代田区とか中央区とか海とか湿地帯だったもの。
まあそれ言ったら秀吉が町を作るまで石山本願寺界隈以外は湿地帯だった大阪(市)も大差ないわけだが。
> 歴史紀行作家
なにもんやねん
↓
朝鮮半島から渡来人がやってきて近畿に住み着く
↓
縄文人が東日本と九州に分断される
↓
九州の縄文人が近畿に攻め込み渡来人を征伐する(天孫降臨)
↓
渡来人が今の大阪に逃げ込む
↓
その渡来人の子孫が今の大阪人になる
歴史は勝者によって書かれる
倭 在帯方東南大海 中、依山島為国 。(魏略)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるほうが
どうかしてるワケ
つまり魏志倭人伝の数字をまにうけてるヤツは知能に重大な問題がある
人は記憶型と思考型に大別できる
>>20
狭いな~
おらは筑紫平野まで入ると思うとる
>狗奴国の比定地として有力視される出雲を中心として考えてみた。
初耳です
畿内説の京都大阪な学者は
神話の天皇は盛ってるから
邪馬台国は奈良県内で問題なしなのね
卑弥呼がずっぽし入っていても
もしそうならそれなりの伝承として残ってる
宮内庁が管理してる古墳全部調べたらわかるかもな
300年前江戸時代の新井白石から
同じ議論の繰り返しで
お前らが偉そうに自論を述べても
300年前と同じ事言ってるだけ
それをさも新事実みたいに言ってるのは滑稽で愚か
世界的に見て起源ゼロ年ごろに都市国家になっていた場所は、今も世界の主要都市になっている。
ヤマト国の場所もそういうこと。
邪馬台国を「やまたいこく」と読んでしまう素人さんは失笑の論外で。
>>1
>新羅から渡来してきた素戔嗚尊(スサノオノミコト)が
これ笑うとこですか?w
第四の一書に「オラこんな国いやだー」ってチョコっと書いてるだけで他との整合性も全く取れていないような個所を前提にするとか草しか生えん
鬼=外国人で、ユダヤ人かあの辺りの人だと思う
近所の元伊勢の宮津には真名の壺もあったというしな
海の神ならともかく大江山の鬼とかどんな世界観してんのさw
せめて先に古事記くらいは読んでみては?
元伊勢って京都の来たの方で転々としていて、最終的に天橋立あたりに落ち着く
外国人なら腑に落ちるんだよね。そして頭よすぎて転々とするしかなくなるのは、あの人ら
中国正史に無いことも頷けよう
間違いなく引用してきて嬉々として中国正史に載るわ
あいつら中華の威光や威信に関わることは針小棒大の10倍増しで書くからw
コメント