1: 樽悶 ★ 2026/07/28(火) 23:43:57.03 ID:acnhjcwp9美しい円錐(えんすい)形の三上山を望む滋賀県野洲市の中畑・古里遺跡で先月、弥生時代の近畿最大級の掘っ立て柱建物跡が発見された。土器から推定された築造時期は2000年前の西暦0年前後(弥生時代中期末)。日本列島の広い範囲で謎の社会変革が起きていた激動期にあたり、大きな建物の空白期ともされてきた。そこに燦然(さんぜん)と出現したのが今回の巨大建物跡だ。なぜこの場所に建てられたのか。
■現地説明会に900人
発掘調査は県文化財保護協会が、商業施設の開発に伴って実施。長辺18.0メートル(柱の間の数は5間)、短辺7.0メートル(同1間)で、床面積は126平方メートル。広縁(テラス)の支えとも推測される柱穴を入れると長辺は6間、面積は147平方メートルに及ぶ。
弥生時代の近畿最大の掘っ立て柱建物は、国内有数の環濠集落として知られる池上曽根遺跡(大阪府和泉市、泉大津市)で復元された133平方メートルの「いずみの高殿」で、これに匹敵する大きさだ。
計24個の銅鐸(どうたく)が埋納された「大岩山銅鐸」の発見地に近いことも注目され、三上山を拝む銅鐸祭祀(さいし)の祭殿であった可能性がある。
(省略)
■柱穴に重要な情報
考古学者で奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員の森岡秀人さんが着目したのは柱穴だ。柱穴はすべて、建物の外側から内側にかけて傾斜していた。長大な柱を斜路に落とし込み、引き起こすための構造と考えられる。
珍しい特徴だが類例がある。中畑・古里遺跡から約5キロ西南に位置する伊勢遺跡(守山市)の大型建物群で、その柱穴の特徴を「伊勢型」と名づけたのが森岡さんだった。
伊勢型の主な特徴は、梁(はり)間1間、桁行4~6間で柱穴に段状構造やスロープを備えること。儀式的に柱を立てる光景を想像し、三上山の祭祀と深く関わると考える森岡さんは「三上山に最も近い遺跡で、最古かつ最大の伊勢型建物跡が発見された意義は大きい」と強調する。
建物の「上物」が残る木造建築は法隆寺(奈良県斑鳩町)の7世紀後半(飛鳥時代)の西院伽藍(がらん)が世界最古。それ以前の建物は柱穴などの遺構や土器などに描かれた絵から推察することになる。
弥生時代の土器には異様に長い柱の上に大きな屋根が付く建物が多く描かれている。住居ではなく米を収める倉庫、あるいは祖先や穀霊をあがめる祭殿と考えられる。森岡さんは弥生人にとって印象深く、シンボル的な存在であったと考え、今回の遺構をイメージするための重要なヒントになると話す。
■卑弥呼共立期に廃絶
伊勢遺跡は弥生時代後期に繁栄した。40~88平方メートルの十数棟に及ぶ大型建物跡が、方形区画内とそれをリング状に囲うライン上に整然と配置された類のない特異な遺跡だ。
大型建物跡は平成4年から相次いで発見され、当初は魏志倭人伝に登場する倭国女王・卑弥呼が活躍した2世紀末から3世紀中頃の「邪馬台国時代の王の居館」と報道された。
しかし、年代を測るものさしとしての土器を研究する森岡さんらは従来の土器編年の修正を提唱。いずみの高殿に残っていた柱材の伐採年を紀元前52年と特定した年輪年代法の数値とも整合性がつき、年代観は大きく変化した。
森岡さんは現在、伊勢遺跡の存続期間を西暦80年頃から180年頃にかけての約100年間と推定する。卑弥呼が共立される邪馬台国時代の始まりとほぼ同時に廃絶した遺跡であることを明らかにした。
■近江躍動の弥生後期
江戸時代以来の邪馬台国論争は畿内ヤマト説と九州説で決着がついていないが、最有力候補地が前方後円墳の発源地である纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)であることは揺るがない。
纒向遺跡は弥生時代終末期に、三上山と同じく円錐形の三輪山の西麓に突如出現する。前方後円墳を構成する要素などの考察からは、吉備や讃岐、出雲といった西側地域の合議によって卑弥呼が共立され、王権が誕生したとの説が有力視されている。
これに対し森岡さんは、王権誕生前夜の弥生後期に、近畿や東海、日本海側の丹後を含む広範囲を主導したのが琵琶湖南部地域であったと論じ、伊勢遺跡こそが卑弥呼共立の地であった可能性を指摘する。
王権誕生の助走期間である弥生後期は近江の時代であったと森岡さん。今回発見された遺構には何度も足を運び、「近江が躍動し始め、新しい歴史的ステージに立ったことが如実にわかる物証がついに姿を現した」と感嘆する。(以下ソース)
7/23(木) 8:09配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/79c165207d7aa33e61cb7802a2b841c6864b1fb7★1︰2026/07/24(金) 23:55:33.00
https://asahi.5ch.io/test/read.cgi/newsplus/1784904933/引用元: https://asahi.5ch.io/test/read.cgi/newsplus/1785249837/
邪馬台国は滋賀にあった!
>>5
白村江の戦いに敗れたあとこしらえた
朝鮮儒教王朝だからな!
何か見つかるとすぐに統一王朝と繋げてしまうのは止めたほうがいいよ
各地にそれなりの王朝があって、勝手に演ってたんだよ
なにせ時間距離が遠すぎて、征服とか出来ないんだから、お付き合い程度で済ませてたんだろうな
>>6
ある程度の大きさの集落があちこちにあって、近くの集落のいくつかが
共同で作業する体制になっていて、その結びつきが一番大きかったのが
当時の畿内だったと思うんだよね。
で、その共同で作業する勢力も日本各地にあって、奈良を中心に交易関係
等で交流していたと思うんだよ。
もちろん一部には闘争や占領みたいなことはあったとは思うが、実際にそれが
西日本全体に広がったのは五世紀以降って感じかと思う。
で、その一番大きかった勢力の奈良が邪馬台国だったどうかは別の話で、
それはまだわからないと思うんだよね。
卑弥呼「あっ!漏れちゃう!これ以上溜まると漏れちゃう!」
予想屋は絶対に実現しない事は言っちゃ駄目なんだ
残った穴が琵琶湖
ちなみに国産みで琵琶湖を作ったというのはどの文書のどこらへんの
話かわかる?
琵琶湖ができたのは400万年前なんだけど。
饒速日命だな
>>1
>森岡さんは現在、伊勢遺跡の存続期間を西暦80年頃から180年頃にかけての約100年間と推定する。卑弥呼が共立される邪馬台国時代の始まりとほぼ同時に廃絶した遺跡であることを明らかにした。
日子坐王や和珥氏との関係はどういうものだったんだろうな
記紀的にはヤマトから地方に降った親王という位置付けだけど
>>1
>纒向遺跡は弥生時代終末期に、三上山と同じく円錐形の三輪山の西麓に突如出現する。前方後円墳を構成する要素などの考察からは、吉備や讃岐、出雲といった西側地域の合議によって卑弥呼が共立され、王権が誕生したとの説が有力視されている。
出雲も入れちゃうのか
四隅突出型墳丘墓と前方後方墳の地域も邪馬台国共立認定か
考古学的根拠あるのかね
魏志倭人伝の
東に海があるとは琵琶湖の事か
宇治川の鵜飼も一致する
近くに火山はありますか?
近畿地方に活火山はなく
唯一噴火口のカルデラが残ってる神鍋山も縄文時代早期の噴火です
越の白山は活火山ですが
黒曜石の流通を担ってだろうしね
畿内だと隠岐が近い産地だから
信州和田峠の黒曜石は尾張辺りまでしか来てないみたい
魏志
「倭国の東に海があり、その向こうに別の倭種の国がある」
本州から何が見つかろうが結局別の倭種の遺跡では!?
犯罪民族なんだから即刻追い出さないと
勝手に住み着いている奴や居座っている奴も追い出さないと
昔の都がどこにあったか何て現代においてそんな意味がある事なんでしょうか?
邪馬台国論争ばからしいよね
歴史書で初めて比較的詳細に記述された日本の国がどこにあったか、
というのはけっこう興味深いことだと思うけどねえ。
知ることは楽しい
理解が進むのは気持ちが良い
>>39
どういう立地で集落が作られ町が作られ都市が作られ国が作られ
そういう視点で見るだけでも学術的価値はある
文明はだいたい川の近くで出来てるの知ってるだろ?
滋賀県は日本海側だから太平洋側の大和に攻められて放棄したものが遺跡として発掘された?
国譲り神話はやはり日本誕生の話で間違いないのだろう
西暦0年だと卑弥呼は生まれてない
邪馬台国とは関係なく、滋賀の有力者のいた遺跡なんだろう
にほ鳥の、息長、葛飾
にほ鳥のは牛留鳥とも書く
時代は違うが奈良の若草山山頂古墳は牛塚とも鶯塚とも呼ばれていた

